「隣人、加藤との秘戯」〜プロローグ〜

真奈美

 山に囲まれた静かな村。その奥、車でしか通れない細道を抜けると、わたしがこの春から暮らす平屋の古民家がある。わたしの名前は三浦真奈美、年齢は25歳。職業はフリーランスのイラストレーター。仕事量も安定してきたので、雑音の多い都会から逃れるためにこの長閑で静かな村に引っ越すのを決意したのだった。

 休日に色々なところを見て回ったけど、なかなか良い場所は見つからなかった。そんな時、仕事で知り合った人にこの村を紹介されたのだ。紹介してくれた人の先輩がプログラマーで、この村でリモートワークをしていたそうだ。その人は海外に転勤になった為、住んでいた一軒家を紹介してくれたのだった。静かな村でネット環境が整っていて、わたしにとって最高な場所だった。

 四軒だけがぽつりぽつりと建つ高台の一角。家と家の間には広い畑や田んぼが広がり、すれ違うことさえ滅多にない距離感がある。引っ越しを終えたその日の午後、重たい段ボールを片付けていると、チャイムが鳴った。

 玄関の扉を開けると、白いポロシャツにグレーのスラックスを履いた背の高い男性が立っていた。

「こんにちは。お引っ越しされたんですね」

 髪は白いけれど、整えられたリーゼントがどこか男らしい雰囲気を醸している。歳は――そう、70歳くらいだろうか。でも、年齢よりずっと若く見える。

「隣の……というには少し遠いですが、加藤と申します。この近くで診療所を開いてましてね。困ったことがあれば、いつでも」

「ありがとうございます。三浦です。よろしくお願いします」

 わたしは軽く頭を下げながら、改めて彼の顔を見た。口元にうっすらと浮かんだ微笑み、はっきりした目鼻立ち、そして――どこか、じっと見つめられているような、そんな視線。

 挨拶を交わしただけなのに、体の芯がなぜか少し熱くなるような、そんな奇妙な感覚が残った。

 加藤さんは名刺のような紙を差し出し、「診療所の場所と連絡先です」と一言だけ添えて帰っていった。振り返ることもなく、ゆっくりと歩いて行くその背中を、わたしはなぜか最後まで見送っていた。

 その日の夕方。古民家の台所で湯気を立てる味噌汁を混ぜながら、ぼんやりとさっきのことを思い返す。

――あの目、やっぱりおかしかったかな。

 Tシャツ越しにじっと見られていたような気がした。田舎に来てから、あまりブラもつけずに過ごしていたから、うっすら浮き出ていたのかもしれない。

「……医者だから、そういう目になっちゃうのかも」

 ひとりごとのように呟きながら、短パンの裾を無意識に引っ張る。わたしの脚に視線を落とす加藤さんの眼差しを、ふと思い出してしまっていた。

 都会にいた頃は、こんなふうに男の視線を意識することはよくあった。だけど、それは夜の飲み会や電車の中といった、ある種の“油断”を前提とした場所だった。

 でも、ここは――田舎で、午後の静かな玄関先で。

 真っ赤な夕陽が障子越しに部屋を染める。時折、風がカーテンを揺らして、草の匂いを運んでくる。

「……変な気分」

 わたしは首を振って気を紛らわせた。けれど、体の奥に残ったざわめきは消えてくれない。

 少しだけ鼓動が早くなるのを感じながら、Tシャツの胸元を引き寄せるようにして閉じ、もう一度加藤さんの笑顔を思い出した。

 あの優しそうな目は、本当にただの親切心だけだったのか。それとも――

 お椀に味噌汁を注いだ瞬間、わたしの視線はふと、玄関の方へと向いていた。

「……また来たり、するのかな」

 そう思った途端、胸の奥がなぜかくすぐったくなって、わたしは思わず微笑んだ。

 田舎での暮らしは、静かで、穏やかで……だけど、予想もしていなかった「ざわめき」が、わたしの中で静かに目を覚まそうとしていた――。

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