「隣人、加藤との秘戯」〜前編〜

真奈美

 夕暮れがとっぷりと落ちて、あたりが静寂に包まれ始めた頃、夕飯を済ませた私はテーブルの上のお皿を片づけながら、小さく息をついた。

「……今日、来てくれたんだよね」

 短パンの裾から覗く自分の太ももを、無意識に撫でる。ついさっき会った隣人、加藤の穏やかな声がまだ耳に残っていた。

 白いポロシャツにグレーのスラックス。年齢を感じさせない背筋の伸びた佇まいと、静かな眼差し。それでいて、どこか底の知れない温かさ。


 初めて会ったのに、なぜか懐かしさを覚えてしまった。

 ――加藤さん、優しそうだったな。

 ほんの少し胸が高鳴る。それを打ち消すように私は食器を洗い、また引っ越しの整理を再開した。段ボール箱の中に手を伸ばし、本棚の整理を再開した……その時だった。

 「っ……」

 慌てて薬箱を探したけれど、まだ引っ越したばかりの家には常備薬らしいものが見当たらない。
 何度も呼吸を整えようとしたけれど、波のように繰り返す鈍い痛みが腰まで広がっていく。

 ……どうしよう。

 頭に浮かんだのは、加藤さんの顔だった。


 ――加藤さんの診療所なら、すぐそこ。

 家にいる時は下着もつけずにラフな格好で過ごしている。今日もそうだったが、下着なんて着けている余裕もなく、私は短パンに半袖のシャツ姿のまま、外に飛び出した。

 月明かりの下、砂利道を歩くこと五分。診療所と書かれた小さな看板の前に立ったとき、ほっとしたせいでまた痛みが押し寄せてきた。

 玄関先に明かりが漏れている。恐る恐るチャイムを押すと、しばらくして戸が開いた。

 「三浦さん?」

 昼間と同じ声だった。紺色の甚平に着替えた加藤さんが、驚いたように目を見開く。

 「す、すみません……お腹が……痛くて……」

 私は声を絞り出すように言った。

 「そうでしたか、さあ中へどうぞ、ちょっと診てみましょう」

 そう言って、加藤さんはすぐに私を中へと招き入れてくれた。

 診療所の中は、昼間の田舎の風景とはまるで別世界のように整然としていた。
 ビニル床シートの診察室には、壁際に白い医療用キャビネット、反対側の壁際に診察台。片袖机の上にはパソコンのモニターとキーボード、医学書が数冊置いてある。机の前に医師用の肘掛けの付いた椅子と患者用の丸椅子が一脚ずつ置いてあった。診察台の上の紙シーツが、かすかに光を反射している。

 「無理せず、そこに座って」

 指さされた丸椅子に腰を下ろすと、加藤さんは医師用の椅子に座り、私のお腹に手を伸ばしてきた。私の腹部に置かれた大きな手は、意外なほどに温かくて、力強いのに優しい。

 「ここは?」


 「……っ、ちょっと……」

 押されるたび、甘い痛みが走る。


 息を整えながらも、皮膚越しに伝わる熱に、心臓の音が早くなっていくのが分かった。加藤さんの指が、まるで絵を描くようにお腹の上をなぞる。服越しとはいえ、その動きに合わせて体の奥がひそやかに疼く。

 「大丈夫、たいしたことはないよ。軽い胃の痙攣みたいだ」


 落ち着いた声が、妙に耳の奥で響く。

 「ちょっと待ってて、今お薬と水を持ってくるから」

 そう言って加藤さんは診療所の奥に行きコップに入った水を持ってきてくれた。薬は医療用キャビネットから出してくれた。薬と水を手渡され、言われるままに口に含み、薬を冷たい水で飲んだ。気持ちの問題だとは思うけど、薬を飲んだおかげで痛みがすこしだけ和らいでいく気がした。

 「ふぅ……すみません、急に押しかけて」


 「いや、いいんだ。近くに住んでるんだし、こういう時のための診療所だから」

 彼は椅子の背もたれにもたれかけ、ゆったりとした声で私を安心させるように話しかけてくる。穏やかな口調の中に、昼間と同じ柔らかな温度がある。

 「絵の仕事をしてるって言ってたよね」


 「はい、パソコンで描いてます。家の中で完結出来る仕事なので、思い切って都会からこの静かな場所に引っ越してきました。でも田舎の暮らしには慣れてなくて…」


 「都会とは違うからね。最初は静かすぎるって思うかもしれない。でも、いいところだよ」

 彼の目が私を見ている。ただの視線のはずなのに、全身が包まれるような感覚になる。

 「加藤さんはずっとこちらに住んでいらっしゃるんですか?」

 「いや、私も都会からこの静かな村に引っ越して来たんです。妻が病気になってしまって、空気の綺麗なこの村で生活しようと…。もう5年経つかな…、妻が亡くなって…」

 加藤さんはそう言って窓の外を寂しげに見つめた。

 「ごめんなさい、悲しい事を思い出させてしまって…」

 「いやいや、大丈夫。もうすっかり気持ちの整理は出来ているから」

 会話をしている間に、痛みは本当に少しずつ和らいでいった。胸の奥の緊張も、声を聞いているだけでほどけていく。

 「少し待ってて。コップ片づけてくるから」

 加藤さんが立ち上がり、診療室の奥へと歩いていく。そのとき、ふと机の一番下の引き出しが半分だけ開いているのが目に入った。……見てはいけない、と思った。けれど、視線は勝手に吸い寄せられる。

 中には、整然と並んだDVDケース。そこに書かれたタイトル――明らかに、セクシーな大人の映像作品。さらにその下に重ねられた雑誌の表紙には、挑発的なポーズの女性たち。

 ――この人が、こんなものを。

 意外さと、妙な親近感と……それ以上の感情がないまぜになって胸の奥が熱くなる。

 ――奥さん亡くしてから寂しいんだろうな…。

 そう思った時、下着をつけていない自分の格好を思い出した。体の奥がずくん、と疼く。彼氏と別れてから私も一人で寂しい夜を過ごしてきた…。男性に触れられたのは久しぶりだ、きっと加藤さんも若い女性に触れたのは久しぶりなんじゃないか…、実際は触診なのだけれど…。

 ――違う場所も触診されてみたいな…。

 加藤さんが診療所の奥から戻ってくる足音が聞こえた…。

 「……加藤さん」

 加藤さんが戻ってきたとき、私は気づけば立ち上がっていた。

 「どうしたの?」


 「……あの、ちょっと……」

 言葉が詰まる。けれど、この熱をどうしても誤魔化せなかった。

 ――もっと…、触れて欲しい…。

 「胸が、少し……苦しくて」

 自分でも何を言っているのか分からない。でも、その言葉は口をついて出てしまった。

 彼の目が、静かに細められる。真剣な視線に、私の鼓動がさらに速くなった。

 「……触診、してもらえませんか」

 勇気を振り絞ってそう告げたとき、頬はすでに熱く火照っていた。

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